青森菱友会
岩木川 龍王と武田定清
作: 竹浪 比呂央
青森県中泊町武田地区。十三湖にほどちかい岩木川下流に位置するこの地区は、昭和三十年まで武田村であった。
冠する「武田」の名は、その地の治水開拓に尽力した弘前藩士 武田源左衛門定清に由来するものである。
時は江戸、弘前藩中興の祖四代藩主信政公の世。新田開発や治水・灌漑工事に力を入れた信政公に、才覚ありと取り立てられたのが武田源左衛門定清である。
当時の岩木川は、自然そのままで、駒越川(現在の岩木川)と樋ノ口川(現在の弘前城西濠)の二本に分かれていた。
雪解けや大雨の度に氾濫を繰り返し、城下町や下流域を襲い、洪水に水害と猛威を奮い続ける脅威の存在であった。
そこで延宝二年(一六七四)、信政公は二十八歳の源左衛門を岩木川穿替工事の惣奉行に命じ、天和二年(一六八二)には樋ノ口川を留め切り、二本の川を一本にして岩木川とすること、また岩木川二十四里(約八十キロメートル)の堤防築造大工事と下流域の治水と新田開発の推進を申し付けた。
濁流となって暴れくる岩木川と対峙し、治水の陣頭指揮をとる源左衛門。すると、どこからともなく龍王が顕現し、その清らかな流れをもって濁流を制すると、しずしずと流れは収まっていった。
龍王の加護の元、源左衛門は信政公の期待に応え、岩木川治水工事を見事完遂。岩木川流域の土地と人々の生活を守ったのであった。
激しく荒れ狂う岩木川に挑む武田源左衛門定清と彼の者に清流の力を与えんとする龍王の姿である。
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